1.ベテスダの池にて
・エルサレムの羊の門の近くにベテスダの泉があった。「いやしの泉」として知られ、病人が集まり、人々を収容するために建物が建てられていた(ベテスダ=恵みの家)。
―ヨハネ5:2-3「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」
・泉はラジウム鉱泉の間欠泉で、病気を治す効用があったのであろう。南仏ルルドの泉にも病気をいやす力があると言われ、カトリックの聖地にされている。
―ルルドの泉「南仏ルルドのマッサビエルの洞窟にある泉から湧き出ている水は数多くの奇跡を起こし、多くの人の病気を治した。医学検証所による奇跡認定件数は、数百件にものぼっているが、教会当局から確認されたものは約60件程度である」
・そこに38年間も病気で苦しんでいる人がいた。若いときの放蕩がたたって病気になった人と思われる。
―ヨハネ5:14「その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。『あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。』」
・彼は長い間、いやしを求めてベテスダの池のほとりにいたが、直されることはないと半ばあきらめていた。だからイエスは彼に「直りたいか」と励ましの声をかけられた。
―ヨハネ5:6-7「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。病人は答えた。『主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。』」
・そこには大勢の病人がいたが、イエスが声をかけられたのはこの人一人であった。教会形成もそうだ。一人一人に声をかけ、元気になってもらうことにより、全体が完成する。
―ルカ19:17「主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』」
・イエスは男に歩きなさいと言われた。男が床を取り上げて立ち上がると歩くことが出来た。私たちも主の命令に従って、一歩を踏み出すことが必要だ。
―ヨハネ5:8-9「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。」
2.パリサイ人との論争
・男がいやされたのは安息日であったため、パリサイ人は安息日にいやしを行ったイエスの行為を問題視した。
―ヨハネ5:9-10「その日は安息日であった。そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。『今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。』」
・彼らにとって一人の病人がいやされた事でなく、その癒しが安息日に為されたことが問題であった。掟に縛られる時人は愛を見失い、普遍的な全体愛を説く人は目の前の苦しんでいる人を見過ごす。
―マタイ25:45「王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである。』」
・それに対してイエスは言われた「父が働いておられる時に子が休めようか」。
―ヨハネ5:17「イエスはお答えになった。『私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。』」
・パリサイ派はイエスを理解せず、安息日の掟を破り、神を「父」とよぶイエスを、神を冒涜するものと考え、これを殺そうとし始めた。
―ヨハネ5:18「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」
・男は病をいやされたが、まだ救われていない。人はいやされてもまた死ぬ。死なない、永遠の命を受けることは、恵みを受けた状態のままでいるのではなく、その感謝を通して神の子として生きていくだ。
―ヨハネ5:14「その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。『あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。』」